民主党のアメリカは昔から反日で嘘ばかり

下記は、真珠湾から80年と総括したアメリカ人が書いたナショナルジオグラフィックの記事です。記者が無知なのか政治思想でそのように書いているのか知りませんが、間違っているところを訂正しておきます。私も学校でコレに似た教育を受けました。思いだすだけ虫唾が走ります。80年たっても非公開の文書が多数ありますが、アメリカ公文書館で公開されているものだけでも、個々に書かれている事実とは全く違うことがすでに証明されていますが、日本もアメリカも歴史学者は左巻きに制圧されているので誤った教育が続いています。



あれから80年、真珠湾攻撃が変えた米国の世界観

12/8(水)

第二次世界大戦へ引きずり込み、米国の中立主義を変えた攻撃作戦


いきなりサブタイトルから間違っています。アメリカが日本を戦争へ引きずり込んだのです。周到に用意され孤立し、もう無理を承知でアメリカに仕掛けるか、欧米属国になるかしか日本に手立てはありませんでした。


 米国時間で1941年12月7日、当時、準州だった米ハワイのオアフ島で食料品店を経営していたマサオ・アサダさんは、真珠湾の近くで配達を終えたところだった。突然、大きな爆音がした。太平洋に面した潟では以前から浚渫(しゅんせつ)工事が行われていたので、特に気に留めなかった。ところが、いつまでたっても爆音は止まないどころか続く。 ギャラリー:米兵もむせび泣いた硫黄島の激戦、傷癒えぬ元兵士は語る 写真7点  トラックに乗り、米国海軍と陸軍が使用していた埠頭へ向かうと、途中で別の自動車の運転手に止められた。「逃げろ!これは訓練じゃない。戦争だ!」アサダさんが空を見上げると、日本の戦闘機が飛んでいるのが目に入った。  この日、数千人とともに真珠湾攻撃を目撃したアサダさんの証言は、何年も後になってまとめられた口述記録に残されている。日本軍による90分ほどの攻撃だったが、その後、世界の歴史の流れは大きく変わることになった。


日本の攻撃は真珠湾以外だろうとたかをくくっていたというのが事実で、アメリカは「この日」、日本が攻撃してくることを察知していました。多分日本軍は東南アジアの油田を狙うだろうから、アメリカが植民地にしているフィリピンへ攻め込むんじゃないかという予想で、まさかハワイだと思わなかったのです。ルーズベルト政権の不手際でした。


攻撃前夜

 20世紀に入ってから緊張が高まっていた日本と米国の関係は、1937年に日中戦争が始まり、民間人の犠牲者も出始めたことで急激に悪化した。1940年になると、事態は自分たちの利権にも影響を及ぼすほど深刻であると、米国は感じるようになった。そして、中国に対して軍事支援を行い、日本へ経済制裁を加えた。

それ以前から、カリフォルニアで反日運動が起き日本人の権利が侵されていました。のちにそれはナチスのように日本人収容所へ姿を変えたのです。スターリン贔屓でバカを絵にかいたようなルーズベルトは「元から反日」でした。義理の父のセオドア・ルーズベルトは日本とアメリカの友好のために特使として娘を日本へ派遣したのと真逆で、Fルーズベルトは祖母の時代からチャイナのアヘン貿易で財産を作ったチャイナ通でしたし、大統領選までアヘン商社を維持。取り巻きはシナ人ばかりでした。反戦ムードのアメリカ国内世論を反転させるために、なんとか日本に先制攻撃させ、それを口実に戦争参加したかったのです。

1940年に、日本がナチスドイツおよびイタリアと日独伊三国同盟を締結し、さらに1941年にソ連と日ソ中立条約を交わすと、米国は国内にある日本の資産を凍結し、対日石油輸出を全面的に禁止した。

日本の原油輸入先はアメリカが95%でした。先にアメリカが止めたのです。誰が元栓閉められるような事するでしょう。左巻きは平気で捏造するのです。

  その頃ヨーロッパでは、ナチスドイツが勢力を拡大していた。それまで中立的な立場をとってきた米国だが、日本とドイツの戦争によってその立場は危うくなっていった。  米国の中立性は、当時国内世論を二分する最も激しい議論になっていった。第一次世界大戦の記憶もまだ新しく、世界恐慌から回復途上にあった頃、海外での戦争に参戦することに反対する国民は多かったが、その一方で苦しい状況にある同盟国を助けるべきだとの声も強かった。

既にこの時、イギリス領インドでアメリか軍基地と軍港が出来上がり、対日参戦の用意がされていたことは多くのイギリス人記者が記事にしています。

そこでフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、武器貸与法に署名し、英国や中国などの同盟国へ武器と軍装備品を提供した。  中国との戦争が長引くにつれ、米国との対立は避けられそうにないと悟った日本の軍部は、自分たちの選ぶ道を検討し始めていた。米国海軍は手ごわい。日本の対東アジア構想の前に立ちはだかる米国の存在をかき消すだけの戦力を、当時の日本は持ち合わせていなかった。  しかし、奇襲攻撃なら何とかなるかもしれない。連合艦隊司令長官の山本五十六は、米国へ宣戦布告する前に、太平洋で奇襲をかけ、米国の太平洋艦隊にできるだけ多くの損害を与えるべきだと提案した。  山本は、後の海軍大佐である源田実らとともに綿密な作戦計画を練り上げた。昭和天皇は数カ月に及ぶ軍からの圧力に屈し、ついに作戦を許可した。  米国は、日本が航空戦力を増強させていることに感づいていたものの、真珠湾を目標にした攻撃は寝耳に水だった。1941年12月6日、米陸軍諜報部は、戦争が差し迫っていることを示す通信を傍受していたにもかかわらず、攻撃対象が真珠湾であるとは夢にも思わなかった。ホノルルの電信局へこれが届く頃には、攻撃は始まっていた。

何が起こったのか

 夜明け前に放たれた第一砲は、米軍の駆逐艦ワード号によるものだった。真珠湾の入り口付近で潜水艦の潜望鏡が目撃されたとの報告を受けたワード号が、これに攻撃を加え、沈没させた。しかし、このあと空からの攻撃があるとは予測していなかったため、特に警報を出すことはしなかった。ハワイ時間で午前7時48分、日本軍による第一波の急降下爆撃機が真珠湾上空に現れた。目標は、湾の中央にある海軍所有のフォード島と、その付近に配備されていた7隻の戦艦だった。  わずか数分のうちに、米国艦隊の大部分が攻撃を受けた。第一波と第二波に分かれた日本の航空機353機と28隻の潜水艦は、戦艦オクラホマとアリゾナを修復不可能なまでに破壊し、残りの全ての戦艦とその他の艦船にも損傷を与えた。また、近くの飛行場も攻撃された。  不意打ちを食らった米軍は、全く反撃しなかったわけではない。地上から高射砲で応じ、戦闘機も発進させ、全体で日本軍の航空機29機を撃ち落とした。  この攻撃で、2400人近い米国人が命を落とした。そのうち半分近くは、船体に直接攻撃を受けた戦艦アリゾナの死者だった。船には38組の兄弟が配属され、なかには3人兄弟も何組か含まれていたが、そのうち生存したのは1組だけだった。  日本軍機を狙った高射砲が爆発しないで落下したために、犠牲になった民間人も出た。日本側の死者は64人だった。

米国参戦

 真珠湾攻撃は、米国全土に衝撃を与えた。それまで何年も国際紛争の傍観者であった米国は、これをきっかけに再び戦争に引き込まれた。攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は議会に対し、日本への宣戦布告を要請した。そして12月7日を「恥辱として記憶に刻まれるであろう日」と呼び、国家が重大な危険に直面していると語った。宣戦布告に反対票を投じた議員は、モンタナ州選出のジネット・ランキン下院議員ただ一人だった。連邦議会初の女性議員で平和主義者のランキン議員は、第一次世界大戦の時も米国の参戦に反対していた。  12月11日、ドイツとイタリアの両国が、日本との同盟に基づいて米国へ宣戦布告。米国も直ちに応答した。それに引き続いて起こったことは、ヨーロッパの大部分と日本の国土を焦土と化す悲劇的な戦いだ。戦闘による死者は1500万人、負傷者は2500万人。4500万人以上の民間人が犠牲となった。米兵の最終的な死者数は41万6800人だ。  だが、真珠湾攻撃がきっかけになった残酷な遺産はそれだけではない。日本軍の攻撃は、米本土に住んでいたおよそ12万人の日系人を強制収容所へ送る口実に使われた。そのなかには、米国市民権を持つ者も7万人含まれていた。そして、1941年まで米国が貫いていた孤立主義と中立主義を永久に終わらせた。  真珠湾攻撃は、世界最強の軍事力を持つ米軍を第二次世界大戦へ引きずり込んだ。それは、国家としてのターニングポイントでもあった。1942年2月、ペンシルベニア州ピッツバーグのタクシー会社役員を務めるポール・L・ヒューストンは、街頭インタビューで次のように語っている。「私の周囲の人間は誰もが、これまでの古い世界は1941年12月7日に消えたと感じています。私たちは今、全く新しい世界に生きています」

文=ERIN BLAKEMORE/訳=ルーバー荒井ハンナ

こうやってアメリカの都合のいい記述がされていますが、Chinaに関しても同じかと言えば、そうではないのです。現実は、アメリカにとって一番の同盟国は日本ですが、アメリカのマスコミや学者にとってはチャイナなのです。そういう歴史背景、現在のスタンスなどを諮ったうえでアメリカの報道や論文を見なければなりません。




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